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◆1986年~1995年 大型化、そして国際化へ
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 日刊スポーツに、エストニアからFAXが舞い込んだのは、90年10月。同年9月に、ソ連から独立を果たしたばかりのエストニア人ランナーたちからの参加申し込みだった。

 彼らにとって自由に出国できるのは初めてなら、海外マラソンももちろん初めて。社会主義国家では考えられない、自由な雰囲気、高級なホテル、移動電話、豪華な食事などに「自分たちの国は石器時代」と感嘆の声をあげるばかりだった。つい何カ月か前まで、激しい独立闘争に参加していた彼らは、シューズも、ウエアもぼろぼろ。ろくに練習もできないから、成績も平凡。しかし、母国の名を叫びながらゴールし、地面を転がりまわって喜びを表現する姿は優勝者以上のものだった。1カ月1万円程度の給料では、土産を買って帰る余裕も、新しいシューズを準備する金もなかったが、夢にまで見た自由世界への冒険だったのだろう。レース翌早朝、露天風呂から日の出に向かい、「俺達は自由だ!」と叫ぶ彼らの姿があった。

 空前の市民マラソンブームに支えられ、11~20回大会は国際化、巨大化の10年間だった。メルボルンマラソン(87年)、ロトルアマラソン(88年)、ベルリンマラソン(90年)の海外有名マラソンと、次々に姉妹大会として提携。88年には国内の市民マラソンで初めてAIMS(国際マラソン連盟)に加盟し、友好の輪は世界に広がっていった。AIMSからは計測も受け、河口湖は世界公認のコースともなった。メルボルンマラソンのスタッフで、18回大会の覇者、コリン・ステファンスは15回の河口湖マラソン参加を数える。「大会スタッフや地元河口湖町、多くのランナーと友達になれたことが何よりの宝物」。すっかり日本文化にも慣れ、日本酒とカラオケが大好きになった名物ランナーだ。

 86年には、大会参加者はついに1万人を突破。名称も「リクルートカップ」に改称。市民マラソンとして冠スポンサーがつくことは、当時非常に珍いことであり、現在のマラソンビジネスのはしりともいえた。参加人数の増大につれ、注目も高まり、87年に放送された大会のドキュメント「それぞれの42.195キロ」は、日曜日の夕方に放送され同時間帯の歴代視聴率最高記録(当時)を更新したほどであった。88年、ついに参加人数は定員を超える。1万4000人の定員に1万8000人の申し込みが殺到し、約4000人に現金書留で返送する作業に、スタッフはうれしい悲鳴をあげた。

 89~91年は、ペルシュケ(ポーランド)が前人未到の3連覇。「空気は冷たかったが、雰囲気はとても温かかった」。温暖化の影響もあるだろうが、当時のスタート時は今よりずっと寒かった。スタッフはスキーウエアを着こんで作業し、雹が降ることや、、凍った路面をお湯で溶かすことも。また、ペルシュケが感動した「温かさ」は、地元町民の熱心な応援や自主的な給水所に対して。ランナーにとっても、迎える地元にとっても河口湖マラソンは、一つのお祭りなのだ。

 93年には歴代最多となる1万3320人が出走。94年には大会の評判を聞きつけ、当時世界歴代2位の記録を持つアーメド・サラ(ジブチ)も自ら申し込みをしてくるほど、河口湖マラソンは国際的に認知された「市民マラソンの雄」的存在となっていた。

 河口湖マラソンの歴史は、技術革新の歴史でもあった。第1回大会に一スタッフとして関わった山梨陸上競技協会現理事長・宮澤千秋は、目視、手書きによる当時の記録集計を「戦争のようだった」と振り返る。目視+音声テープ、目視+音声テープ+ビデオ、バーコード…と進化していったが、最後はマンパワーに頼るしかない。当時の同協会理事長中村剛男ほかのスタッフが徹夜でビデオ、テープをチェックする年もあった。

 大会がさらに大きくなり、参加者が増えるに従ってそれも限界に近づきつつあった、96年、ランナーズが開発したRCチップを使用することで問題は解消。2000年には記録証の即時発行すら可能になった。

エストニアからの冒険者たち。国旗を誇らしげに(91年)
87年大会のスタート風景。現在とは向きが逆だ
タンザニアランナー、マオが制した18回大会のスタート(93年)
89、90、91年と3連覇のポーランドのペルシュケが歓喜のゴール(90年大会より)

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